– 本や記事がもたらしてくれた幸運 – アロマセラピーを始めてからの10年
ロバート・ティスランド
アロマセラピーは過去50年の間に劇的に変化し、私はその変化の多くを目の当たりにし、またその一端を担ってきました。私のアロマセラピーのキャリアは、マッサージセラピストとしての訓練を受けた1960年代後半に始まりました。1980年までには、アロマセラピストとしてパートタイムで開業し、最初の著書『The Art of Aromatherapy』(アロマセラピーに関する最初の英語本でもある)を書き、エッセンシャルオイルの販売(英国初のエッセンシャルオイル小売ブランド)を始めました。しかし、それ以前の10年間は、セレンディピティとハードワークに彩られた日々でした。ここで、キャリア初期の頃の重要な出来事を振り返ってみます。
1967 – ジャン・バルネの本
私は自分の中に流れるフランスの伝統を誇りに思っています。父はフランス人の両親のもとにロンドンで生まれたので、第一言語はフランス語で、英語を話さない子供たちのための特別な学校に通っていました。しかし、彼は生涯を英国で過ごしたので、基本的にバイリンガルでした。母国語を失わないために、父は毎日のようにフランスのラジオ局を聴いていたものです。父がフランスに行ったのは、パリ解放後の1944年、仏英通訳として米軍に「出向」したときだけでした。母はフランス語を話せず、私はバイリンガルには育ちませんでしたが、学校ではフランス語を学びました。
1960年代初頭、母はエステティシャンの訓練を受けました。ミシェリン・アルシエの学校でアロマセラピストとしての訓練も受けました(かのイヴ・テイラーO.B.E.も同じクラスだったそうです)。60年代から70年代にかけて、この学校は英国で唯一のアロマセラピスト・トレーニングコースを開講していて、ミシェリンがマルグリット・モーリーから得た情報に基づいていました。ちなみに、モーリーのアプローチは、エネルギー学とスキンケアをミックスしたものでした。
1967年5月(私は18歳でした)、母がジャン・バルネ博士の講演を聴きにパリへ赴き、1964年に出版された彼の著書『Aromathérapie』のサイン入り本を持って帰ってきました。(母はフランス語がわからなかったので、サイン入りの本が欲しいというだけでこの本を購入したのか、それとも私のことを真剣に気遣ってのことだったのかは分かりません。実は彼女が英国を離れたのは後にも先にもこの時だけでした)。フランス語が読めたからこそ、私はその本を読むことができたし、本当に興味を引かれました。アロマセラピーの存在はすでに知っていましたが、それが単なる美容療法ではなく、自然療法でもあるとは知らなかったのです!これは驚きでした。特にエッセンシャルオイルについては殆ど知らなかったので、私は魅了され、バルネの本は私のアロマセラピーのバイブルとなりました!
もしフランス語が読めなかったら、こんなことにはならなかっただろうと思います。それでもアロマセラピーにのめり込んでいたかもしれませんが、おそらくそうではなかったと思います。数年後、私はパリのバルネ博士に電話をかけました。私はただ、自分がどれほど彼に憧れ、尊敬しているのか、そして彼の本が私のアロマセラピーのキャリアにどれほど影響を与えたかを直接伝えたかっただけでした。彼の英語も私のフランス語も(発音が)不明瞭だったので、ほとんど彼はフランス語、私は英語で話しました。驚いたことに、彼は私のことを知っていて、私の仕事も尊敬していると言ってくれました。
1975 – The Harper’s & Queen に掲載された記事
バルネ博士に電話する5年前、私は彼の著書の翻訳を試みました。(私の翻訳家兼通訳者の妻が言うように、文章を理解することと翻訳することはまったく違うことなのだというのに)。それにしても、なぜ私はこんなことをしようとしたのでしょう?一体誰が出版するというのでしょう?当時はよく考えもせず、ただこの本が英語で出版されるのを見たかっただけだったのです!
ほぼ同じ頃、『ハーパーズ&クイーン』誌のヘルス&ビューティーエディター、レスリー・ケントンから連絡があり、アロマセラピーについてインタビューしたいと言われました。数日後、私はハーパーズ&クイーンのオフィスに赴き、高層階に案内されました。エレベーターのドアが開くと、白い流れるような服を着たブロンドの女性が笑顔で出迎えてくれました。レスリーは私を、映画で見たことのあるような開放的な新聞社のオフィスを通って、ガラス張りの壁に囲まれたオフィスまで案内してくれました。
彼女が質問し、私が答え、彼女がメモを取るというスタイルで、20~30分ほど続いたでしょうか。終了後、私は彼女が記事を書く参考になるかもしれないと思い、アロマセラピーについて私が書き溜めていた原稿があると話しました。実はその数週間前、私は健康雑誌の記事にできるかもしれないと思って、たまたまアロマセラピーについて数ページを用意していたのです。そこには、その時点で私が知りうるアロマセラピーとエッセンシャルオイルのすべてが書かれていました!
レスリーはその原稿のコピーをもらえないかと尋ね、私をエレベーターまで案内してくれました。ドアが閉まる瞬間、彼女はウインクをくれました。そのウィンクが何を意味しているのか私にはわかりませんでしたが、私は自分のインタビュー記事がどのような出来となるのか楽しみに待っていました。そして3ヵ月後、その号が出版され、そこにはレスリー・ケントンの名前で私のアロマセラピーの原稿が掲載されていました。最初は怒りと裏切られた感があったのですが、記事の最後に、私が前年に始めたエッセンシャルオイル事業、アロマティックオイル・カンパニーの連絡先が書かれていたのです。実はその後数週間で、通販カタログを希望する手紙が実に3,000通以上も届き、事業の立ち上げに大いに役立つこととなりました。
1975 – イアン・ミラーとの出会い
バルネの本を翻訳しようとして失敗し、一方で私の書いた原稿が活字になったのを見て、私はもしかしたら自分でも本が書けるかもしれないと思い始めました。そこで、C.W.ダニエルという代替医療の本を専門に扱う出版社があることは知っていたので、そこに問い合わせることにしました。私が住んでいたノース・ロンドンから1マイル(約1.6キロ)ほどのところに彼らのオフィスがあったのですが、マスウェル・ヒルという名の、かなり長く急な坂を下っていかなくなりませんでした。
しかしドアをノックすると、オーナーのイアン・ミラーが旧友のように迎えてくれ、お茶を一杯飲もうと招き入れてくれました。彼のオフィスに腰を落ち着けると、私は彼にアロマセラピーの本を出版してもらえるかどうか尋ねました。彼は怪訝そうな顔をし、最近同じテーマの別の本を翻訳出版する契約を結んだと説明しました。
私は、「それはバルネ博士の本に違いない」と名指ししました。イアンは私に超能力があると思ったそうですが、実際のところ、当時はアロマ関係の本といえばそれしか考えられなかったのです。それはさておき、バルネ博士の本がアロマセラピーの医学的な側面について書かれているものであるのに対して、私の本は(まだ本のタイトルさえ決まっていなかったのですが)嗅覚やマッサージなど様々な側面について書いたものなのだと力説しました。結局、私は契約書にサインをして、イアンのオフィスを後にしました!
当時住んでいたマスウェル・ヒルの近くにアーチウェイというロンドンの地域があるのですが、そこにアーチウェイ・アーチェリークラブというものがありました。ある日、そこを通りかかった時に、「アーチウェイ・アーチェリー」という看板が目に入りました。私は「AA」という言い回しについてヒントを得て、これが私の本のタイトルを『アート・オブ・アロマセラピーThe Art of Aromatherapy』にするきっかけとなりました。そして、英語版のバルネの本を『実践アロマセラピーThe Practice of Aromatherapy』と呼ぶのは理に適っていると思ったのです。
当時はインターネットもなく、簡単に調べ物をすることもできない時代でした。一つのことを見つけるために、私はロンドンのあちこちの図書館を訪ね回らなければならず、それはたいへん時間のかかる作業でした。調べ物のほとんどは英語でしたが、フランス語(問題なし)、ドイツ語(間違いなく問題)、ブルガリア語(大問題)のものもありました。ロンドンののろのろと遅いバスで何時間もかけて移動し、図書館で自分の席に本が届くのを待ち、私の学術的な発掘の成果物に目を通しました。私は「アロマセラピーの謎を掘り下げよ」という使命を与えられていたのです!あっという間に数年が過ぎました。
大英博物館のリーディングルーム
そんなある日、私は大英博物館図書館の公衆電話からイアン・ミラーに電話をかけました。私が自分がどこにいるのか、何に取り組んでいるのか、原稿はまだ先であることを告げると、イアンはこう言言いました。「いいかよく聞け、ロバート。電話を切って家に帰り、すぐに本を書き終えるんだ!」。そのうちに私はついに本を書き上げるに至りました。
『ヴォーグ』1984年夏の「ビューティー&ヘルス」特集号によると、「イギリスには現在、一般市民によるアロマセラピストの伝統が確立されています。最も貢献をしたのはロバート・ティスランドで、彼の著書『アート・オブ・アロマセラピー』は1977年に出版されて以来、標準的な参考書となっています」と説明されています。
それから3年後、ようやくバルネの英語版翻訳本が発売され、イアン・ミラー経由でバルネから短いお礼の手紙を受け取りました。あれからいろいろなことがありましたが、最初の10年が私の将来を決定づけたと思います。両親、レスリー・ケントン、ジャン・バルネ、そしてイアン・ミラーには、今にして思えば、理想的な状況と信頼の相乗効果をもたらしてくれたことに感謝しています。
ロバート・ティスランド
国際的に著名な精油関連の研究家。著書『アロマテラピー:(芳香療法)の理論と実際(The Art of Aromatherapy)』(1977)は12の言語で出版され、『精油の安全性ガイド第2版』(2013)は精油の安全性について検討する際の基準として広く認知されている。また、2015年にオンラインスクールとして再始動したティスランド・インスティチュートには世界各地から2000名以上の受講生が集い、一部の講座は日本語字幕版もリリースされている。2023年には、ティスランド・インスティチュート日本語版ウェブサイトが完成。
IFA、IFPA、A I A名誉生涯会員。www.tisserandinstitute.jp
翻訳 池田朗子 M.I.F.A.
1994年以降東京を中心にアロマテラピー講師として活動開始、現在に至る。2000年に英国へ転居後は教育活動の他、日英雑誌への執筆、国際カンファレンスへの登壇、『精油の安全性ガイド第2版』など翻訳も多数手がけている。英国IFA理事(2005〜06年)www.aromaticsworld.com